Speaker A
大正11年の11月、アインシュタインが日本にやってきました。日本で最初の公演は東京の慶應義塾で開かれ、会場には2000人以上が集まっています。彼はメモなどを見ずにドイツ語で話し、15分ほど話すごとに区切って日本人の物理学者が通訳しました。話したのは相対性理論です。通訳を入れると約4時間もかかりましたが、ほとんどの人が最後まで席を立たずに聞いていました。実はこの時、彼のノーベル物理学賞が決まってまだ10日ほどでした。それなのに彼は受賞式には出ずに公演を続けました。ストックホルムで受賞式があった日、アインシュタインは京都にいたのです。旅を続けていた彼は43日間この国を見て回りました。その間、人力車を拒まず、歌舞伎を見た後は楽屋まで行って役者にお礼を言っています。記者の中で描かれた自分の似顔絵には冗談のような言葉を書き込みました。そして旅を終えた後、日本人に向けた文章の中で、西洋から学ぶのはいいけれど、西洋より優れているものは守ってほしいと書いています。彼は日本で何を見てそう書いたのでしょうか。この旅が始まる前、アインシュタインはドイツで命の危険を感じていました。日本に来る5ヶ月前の6月、ドイツの外務大臣ラーテナウが車で役所へ向かう途中、銃で撃たれて亡くなったのです。撃ったのはユダヤ人を憎む右翼の若者たちでした。ラーテナウはユダヤ人で、アインシュタインと親しくしていました。そしてアインシュタインも同じユダヤ人です。事件の後、彼のもとにも「あなたも狙われているらしい」という警告が届きます。その時、彼にはその年の秋に日本へ行く予定がありました。前の年に東京の出版社「改造社」から公演旅行の正式な依頼が来ていたのです。一度は条件が合わずに断りましたが、年が明けてもう一度招待され、今度は引き受けていました。この時改造社との間に入ったのが、ドイツに留学していて、彼とも知り合いだった物理学者の石原純です。石原は日本で彼の公演の通訳を務めることになります。アインシュタインにも元々東洋の国へ行ってみたい気持ちがありました。ですから暗殺事件の後、彼は知人への手紙にこう書いています。「長くドイツを離れる機会ができて本当にほっとしました。」そして暗殺から4ヶ月が経った10月の始め、彼は妻のエルザとフランスのマルセイユから日本郵船の北野丸に乗り込みました。日本まではおよそ40日の船旅です。北野丸は地中海を東へ進み、スエズ運河を抜けてインドに出ました。北野丸が西洋を出て3週間ほど経った頃、船は当時イギリスの植民地だった正論、今のスリランカのコロンボ港に寄りました。アインシュタイン夫妻も船を降りて町を見て回ることにしました。そこで2人が乗ったのが人力車です。1人乗りの小さな車を力の強い男たちが引いて、小走りで街の中を進んでいきます。彼にとってはこれが初めての人力車でした。けれど汗だくになって走る男たちを見ているうちに、彼は恥ずかしくなってきます。その日の日記にはこう書いています。「人間をこんなひどい扱い方をすることに自分も加担している。とても恥ずかしい。でもどうすることもできなかった。」人が人を乗せて走らせることを、虐待のように感じたのでしょう。だから日本についてからも、彼は決して人力車に乗ろうとしませんでした。コロンボを出た北野丸はシンガポールを経て香港に着きます。11月9日、彼は香港で山の上へ登るケーブルカー、ピークトラムに乗っていました。ちょうどその日、遠いストックホルムでアインシュタインのノーベル物理学賞が決まります。でも本人はまだそのことを知りません。知らせが届いたのは3日ほど後、船が上海に着いた時でした。スウェーデン王立科学アカデミーからの電報が届いていて、続いてスウェーデンの領事がノーベル賞の受賞を正式に伝えに来たのです。受賞の理由になったのは光電効果という光の性質についての研究でした。ところが彼がつけていた旅の日記には、このノーベル賞のことが一言も出てきません。アインシュタインはノーベル賞の受賞を一体どう受け止めていたのでしょうか。受賞式は12月10日にストックホルムで開かれますけれど、彼を乗せた北野丸はそのまま日本へ向かいました。横浜を出てから40日目、北野丸は神戸港に着きます。港には東京から来た物理学者の長岡半太郎や石原、九州の物理学者の久保田、それにドイツの領事などが出迎えに来ていました。さらにノーベル賞が決まったばかりの学者を一目見ようと、大勢の人も集まっています。ここから彼の日本での43日間が始まります。神戸に着いたその夜、夫妻は京都へ移り、高台にあるホテルに泊まりました。ホテルからは夜の京都の町を見下ろすことができます。その景色を彼は日記にこう書きました。「下の町はまるで光の海、強烈な印象。」初めて会った日本の人たちについても、「親切で上品、とても好ましい」と書いています。次の日の朝、一行は急行列車で東京へ向かいます。窓からは琵琶湖や富士山が見え、途中では関ヶ原にも立ち寄りました。車窓から見た日本の様子も、彼は日記に書き留めています。「古い日本の建物、通りを歩く可愛らしい生徒たち、清潔な村、隅々まで丁寧に耕された畑。」その車両には新聞記者たちも乗り込んできていました。日記にはいつも通り、馬鹿げた質問を受けたとあります。そして東京駅に着いたのは夜の7時過ぎです。ホームと駅前の広場には何万人もの人が集まっていました。あまりの人の多さに夫妻は30分以上もホームから出られません。警察も人の波を抑えきれず、出迎えに来た学者たちは満足に挨拶もできないほどでした。アインシュタインは次々に花束を渡され、万歳の声の中を駅から出ていきました。止まったのは日比谷の帝国ホテルです。そのホテルの前にも一目見ようとする人たちが集まってきました。その様子に彼は妻のエルザに「こんなに歓迎されるほど偉い人間なんてこの世にいないよ」と話したと伝えられています。それでもその夜は遅くまで、通訳の石原純と翌日の公演の打ち合わせをしました。こうして次の日、東京の慶應義塾で日本で最初の公演が開かれます。4時間に及ぶ公演の後、彼は聞いている人たちが疲れてしまったのではないかと気になりました。そこで次の公演は2時間半ほどに縮めています。すると今度は聞きに来た人たちから不満の声が上がったと伝えられています。もっと聞きたかったのに、という不満でした。どこへ行っても大勢の人に囲まれ、講演に追われる毎日でした。そんなある日、帝国ホテルに泊まっていた彼の部屋に、配達人がメッセージを届けに来ます。アインシュタインは配達人にチップを渡していません。日本にはチップを受け取る習慣がなかったからとも、手元に細かいお金がなかったからとも言われていて、本当の理由ははっきりしていません。その代わりに彼はドイツ語で書いたメモを2枚、配達係かりに渡しました。ホテルの便箋に書かれた1枚目にはこうありました。「静かで慎ましい生活は絶えざる不安に縛られた成功の追求より多くの喜びをもたらす。」2枚目は「石あるところに道は開ける」という一言です。なぜこの言葉を書いて配達係かりに渡したのか。その本当の意味は彼本人にしかわかりません。そして東京に着いて3日後、彼は皇室の菊の会に招かれます。菊の会は皇室が毎年秋に開く、菊を眺める園遊会です。会場の赤坂の離宮の庭でアインシュタインを迎えたのは皇太子でした。大正天皇は体が弱く、この頃はほとんど人前に出ていなかったのです。会には加藤友三郎首相をはじめ、政治家や各国の外交官も招かれていました。ところがおよそ3000人の参加者は彼に夢中になり、何のために集まったのかを忘れてしまったかのようだったとドイツ大使館は報告しています。こうした講演や園遊会の合間に、彼は日本の文化にも触れています。元々日本に来る前から、日本の芸術、特に音楽を知りたいと話していたアインシュタインです。東京にいる間に大学の音楽学部で雅楽を聞き、能や歌舞伎も見て、日本の音楽にとても興味を惹かれました。彼は自分から山田耕筰に頼んで体験させてもらってもいます。歌舞伎を見た時には、終演後に楽屋まで訪ねて役者たちに直接お礼を言いました。もちろん講演も続きます。東京帝国大学では専門家の講義も開かれ、相対性理論に反対する若い研究者が、彼に直接議論を挑む場面もありました。そんな彼の周りにはいつも人が集まっていました。その中に、頼まれてもいないのに一行について回る日本人がいます。朝日新聞の漫画家、岡本一平です。「芸術は爆発だ」の言葉で知られる芸術家、岡本太郎のお父さんです。一平はアインシュタインを尊敬していて、すぐ近くで見てみたいと自分から一行に加わったのです。そして旅の様子を新聞に書き、アインシュタインの姿を何枚も絵に描いていました。やがて東京での公演を終えると、一行は仙台へ向かいます。もちろん一平も一緒です。仙台では市民公開で開かれた講演に350人ほどが集まり、東北帝国大学も訪れています。その合間にアインシュタインは日本三景の1つ、松島へ日帰りで出かけました。一緒に行ったのは改造社の山本笃彦と岡本一平です。松島へ向かう汽車の中で、一平はアインシュタインの似顔絵を描きました。それを見たアインシュタインは絵にドイツ語でこう書き込みます。「アルベルト・アインシュタイン、または思考の貯蔵庫としての頭」。自分の頭を考えをしまっておく倉庫に見立てた冗談です。一平は仙台でも別の日に1枚を描いています。アインシュタインはその絵にもお礼の言葉を書き添えました。この絵は今、アメリカのプリンストン大学の図書館に残っています。仙台を後にした一行は、次に日光へ向かいました。日光では3日間、寺や神社を巡り、山を歩いています。日光に向かったその日、彼は日記に日本人のことをこう書きました。「日本人は気質がイタリア人に似ているが、もっと洗練されていて、今も芸術の伝統の中に生きている。神経質なところがなく、ユーモアに溢れている。」日光を見て回った後、東京を離れ、名古屋を経て










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