Speaker A
4月の最終、会社のあちこちで同じ言葉が聞かれていた。あの人が抜けたらうちのチーム本当に回らないよね。誰もがそう言っていた。を守るのも新人の面倒を見るのも面倒な調整役を引き受けるのもいつもその人だった。仕事ができて感情的にならず誰に対しても誠実。職場で1番まともな人だった。その人が5月の連休明けにやめた。引き継ぎ資料は完璧だった。有給は1日も揉めずに静かに消化された。最終出社日も本人は淡々としていた。相別会の席で上司は残念だと言い同僚たちはもったいないと言った。そして半年後、その職場にはまだあまりやめない人たちが残っている。仕事を抱え込まず面倒を避け、かもなく不可もなく時間を埋めている人たちだ。世間はこの現象を会社がブラックだったからで片付ける。あるいは優秀な人はわがままだからで、だがここで1つ引っかかることがある。もし本当に会社が悪いだけならなぜ1番まともな人が先にやめたのだろう。1番不満を持っていそうな人ではなく、1番まともで、1番穏やかで、1番会社に貢献していた人から順番に消えていく。まるでまともさがその職場から脱出するチケットであるかのように。今日はこの現象をゲーム理論と組織論、そして経済学のいくつかの定理を重ねながら裏側から解体していきたい。結論を先に言っておく。優秀な人がやめるのではない。やめられる人からやめていくのだ。そしてその構造はあなたが思っているよりずっと冷たい数式で書かれている。話を1980年代のある実験室から始めたい。経済学者エルンストフェアとシモンゲターは人間が集団の中でどう振る舞うかを調べるためにある単純なゲームを設計した。公共剤ゲームと呼ばれる。イメージしやすいようにこう考えて欲しい。4人がテーブルを囲んで座っている。全員に1万円ずつ配られる。テーブルの真ん中には箱が1つ置かれている。各自は配られた1万円のうちいくらを真ん中の箱に入れるかを自分だけで決める。誰がいくら入れたかは後で分かる。そして箱に集まったお金は例えば2倍に増やされた後入れた額に関係なく4人で山分けされる。つまり4人全員が1万円を全額入れれば箱の中身は4万円。それが2倍の8万円になって4人で割って1人2万円。全員が配られた額の倍になって帰ってくる。これが理想だ。だがここに罠がある。4人全員がきちんと1万円を入れればさっき見た通り1人2万円。誰もが手元の1万円を2万円にできるところが、もしあなただけが1万円を入れ、他の3人が1円も入れなかったら箱の中身は1万円、2倍でも2万円。4人で割ってあなたに戻るのはたった5000円。1万円を出して5000円。差し引き5000円の損だ。逆にあなたが1円も入れず、他の3人が1万円ずつ入れてくれたら、箱の3万円が2倍の6万円、4人で割って1人1万5000円。あなたは手元の1万円をそのまま残したままさらに1万5000円を受け取る。何もしなかったあなたが1番得をする。つまりテーブルの中で1番賢い動きは1つしかない。自分の財布は閉じたまま他人の財布だけ開かせる。これがいわゆるただのりフリーライダーだ。フェアとゲターの実験で何が起きたか。最初多くの人は善でそこそこの額を共同の財布に入れた。協力的なスタートだった。ところが回を重ねるごとに投資額はずるずると下がっていった。理由は人々が急に意地悪になったからではない。入れ続けた協力者がただ乗りする人間にされ続けるのを目撃したからだ。自分ばかりが損をしていると気づいた協力者は入れる額を減らす。すると次の人も減らす。協力は雪だるま式に崩れ、最後には誰もほとんど入れなくなった。ここで重要なのは崩壊が裏切り者の勝利では終わらないことだ。最終的には全員が損をする。それでもその崩壊に向かう過程で1番先に割を食うのはいつも1番誠実に協力していた人間なのだ。ちなみにフェアとゲターはこの実験にただのりを罰すると言う選択肢を足すと崩れた協力が回復することも確かめている。報復の仕組みがあれば協力は守られる。逆に言えば罰の効かない場所では協力は守られない。そして今日の話の主役はまさにその罰が効かない職場の方だ。ここまでは実験室の話ではこの協力者が先に損をする構造が現実の会社でどう作動するのか。満員電車を想像してほしい。あなたの隣で若い男が老人の足を踏んでいる。スマホに気を取られて気づいていない。足踏んでますよと声をかけるのは一見ただの親切だ。だが声をかけた瞬間車内の空気は少し気まずくなる。降りる駅まで視線を浴びるかもしれない。何かを正すという行為には正す側にコストがかかる。職場のまともな人とはこのコストを毎日払い続けている人のことだ。誰かのミスを黙ってカバーする。荒れた会議の空気を整える。新人の質問に手を止めて答える。どれも共同の財布にお金を入れる行為だ。そして公共剤ゲームの数式通り入れた本人に戻ってくる分は入れた額より少ない。組織はこの人をいい人と呼ぶ。だが構造的に見ればこの人は毎日自腹を切っている協力者だ。ここでもう1つ別の学問の地図を広げたい。協力者がなぜやめるのかを説明するにはゲーム理論だけでは足りない。経済学の出番だ。1970年、経済学者ジョージアカロフがたった13ページの論文を発表した。タイトルはレモン市場。レモンとは英語のスラングで外見はまともだが中身が不良の中古車を指す。この論文は後にアカロフにノーベル経済学をもたらすことになる。アカロフが解いた問題はこうだ。中古車市場には良い車とレモン不良車が混ざっている。売手は自分の車の質を知っているが買手には見分がつかない。これを情報の非対称性と呼ぶ。相手は質を見分けられないから平均的な値段しか払おうとしない。良い車にもレモンにも同じ平均価格しか提示しない。すると何が起きるか。良い車を持っている売り手にとって平均価格は安すぎる。割に合わない。だから良い車の持ち主は市場から降りていく。市場に残るのはレモンばかりになる。買手はそれを察してさらに値段を下げる。するとややまともな車の持ち主も降りる。質の良いものから順番に市場を去り、最後には市場そのものが壊れる。これがレモン市場の理論だ。質を見分けられないというただ一点が良いものから順に退場させ、市場を内側から腐らせる。さて、ここで会社の話に戻ろう。会社という組織は巨大なレモン市場である。なぜか?多くの日本企業では社員1人1人の本当の貢献度が正確には見えていない。誰が共同の財布に毎日お金を入れているのか、誰が黙って降りているのか。人事評価はそれを完璧には捉えられない。とりわけ荒れた空気を整えた。新人を助けた。面倒な調整を引き受けた。こういう協力行動は数字に残らない。評価シートの欄がない。つまり会社の中ではまともな協力者とうまく立ち回るただのり社員が見分のつかないまま同じ平均価格で扱われている。同じような処遇、同じようなボーナス。同じような肩書き。ここでアカロフの数式が静かに作動を始める。平均価格は本物の協力者にとっては安すぎる。割に合わない。一方、ただのり社員にとっては割が良すぎる。実際の貢献より高く買われている。この価格のずれに最初に気づくのは誰か?1番まともな人だ。彼らは自分が何を会社に入れているかを正確に知っている。そして自分が平均価格でしか評価されていないことにも気づく。中古車市場で良い車の持ち主が先に降りたように会社でも質の高い協力者から順に市場を降りていく。そして残るのはレモン市場の結論をもう一度思い出して欲しい。残るのはレモンばかりだ。ここまでで1つ当然の疑問が湧くはずだ。割に合わないと気づいた協力者が不満を抱える。ここまではいい。だが不満を理解することと実際に会社をやめることの間には本来は大きな隔たりがあるはずだ。不満を持つ人はどんな職場にも山ほどいる。それでも多くはやめずに残る。ではなぜまともな協力者に限って不満がそのまま退職という行動にまで一直線につながってしまうのか。答えは不満の大きさではない。辞められるかどうかだ。組織論の世界には半世紀以上前から離職の研究という分厚い蓄積がある。その中で最近になってはっきり確かめられたことがある。それは業績の高い社員ほど自発的に会社を辞める確率が高いという不都合な事実だ。2009年に発表されたある大規模研究がある。保険会社の従業員1万2545人を3年間にわたって追跡したものだ。研究者が検証したかったのは愛する2つの仮説だった。仮説A、優秀な社員は会社に高く評価され壊れているのだから満足して残るはずだ。仮説B、優秀な社員は外の会社からも欲しがられる。だから外に選択肢が多く辞めやすいはずだ。データが示したのはBだった。業績が高い人ほど外部の労働市場で高値で結果として辞めていく。しかもこの研究は興味深い条件も見つけている。会社の昇給のスピードと外の出業率次第で優秀な人が残るかやめるかが変わるというものだ。外に良い選択肢があり、中の昇給が遅ければ優秀な人は迷わず外へ出ていく。これは一社の話ではない。2012年に発表された別の研究は複数の企業データを分析して報告している。極端に業績の高い人材は報酬の出し方が外部企業より見劣りする会社からは離れやすく、しかもやめた後自分で起業する確率まで高い。逆に業績の低い社員はそういう会社からは離れにくい。ここから見えてくるのは1つの冷たい定理だ。市場価値が高いとは能力が高いという意味ではない。この職場から脱出するオプションを持っているという意味だ。優秀さとはドアの鍵のことだ。まともな協力者は有能だから外から声がかかる。外から声がかかるからいつでも出ていける。いつでも出ていけるから割に合わないと気づいた瞬間実際に出ていく。一方、共同の財布にあまりお金を入れてこなかった人。うまく立ち回り面倒を避け、かもなく不可もなくやってきた人は外の市場でも平均価格かそれ以下でしか評価されない。だから外に選択肢が乏しい。脱出オプションを持っていない。不満があってもやめられないだから残る。ここで公共剤ゲームとレモン市場が1本の線でつながる。協力者は毎日コストを払っている。会社はそのコストを見分けられず平均価格でしか報いない。そして協力者は有能ゆえに脱出オプションを持っている。コストを払っている人間が脱出する鍵も持っている。だからまともな人からやめていく。これは誰かの裏切りでもわがままでもない。3つの定理が重なった時に必ず出てくる構造上の均衡なのだ。この構造自体は昔から存在していた。だが2020年代の日本ではその脱出がかつてないほど目に見える形を取り始めている。2つの数字を上げたい。1つ目、アメリカの調査会社ギャラップが毎年公表している世界の従業員エンゲージメント調査だ。エンゲージメントとはざっくり言えば仕事に前向きに関与している度合のこと。24年の報告では世界で仕事に前向きに関与している従業員はわずか21%。6割以上が関与していない状態だった。この関与していない状態がいわゆる静かな退職。会社にいるが最低限のことしかしない。心理的にはもう降りている状態だ。ギャラップは同時にこんな分析もしている。仕事に前向きな従業員は転職するのに平均31%の供給を必要とするのに対し関与していない従業員は22%の供給で職場を変える。前向きな人ほど職場が引き止めの壁として機能している。逆に言えば心理的に降りた人間はわずかな条件で動く。あるいは動く先の選択肢がないまま降りた状態でいる。2つ目は日本に固有の現象だ。退職代行サービス。本人に代わって業者が会社に退職を伝えるサービスだ。前ナビの調査によると上半期に退職代行を使った退職者がいた企業の割合は2021年の16.3%から2022年19.5%、2023年19.9%、そして2024年上半期には23.2%に達した。およそ4社に1社だ。業種別では金融、保険、コンサルティングが31.4%、IT通信が29.8%で上位を占めた。ここで注目したいのは利用率が高いのが雇用の流動性が高く企業の










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