**マリー・アントワネットが愛した“日本の小箱”…「ただのニスよ」と笑った修復士が言葉を失った理由【海外の反応】 — Transcript & Summary | SozAI**
Source: https://sozai.app/transcript/marie-antoinette-loved-japanese-box-restorer-speechless/

マリー・アントワネットが愛した日本製の小箱の謎と修復士ソフィーの発見を追う歴史と工芸の物語。

## Key Takeaways

- 日本の漆器技術は18世紀のヨーロッパを凌駕していた。
- マリー・アントワネットは日本製の小箱を特に愛し、大切に保管していた。
- 漆は乾燥しにくく扱いが難しいが、その美しさは時代を超えて評価されている。
- 歴史的な美術品は文化交流の証であり、修復を通じてその価値が再発見される。
- 職人の技術と歴史的背景の理解が修復作業の核心である。

## What the video covers

- ベルサイユ宮殿の修復士ソフィーがマリー・アントワネット愛用の日本製の小箱を調査。
- 1789年のフランス革命で王妃が大切にした東洋の小箱が歴史を超えて保存されてきた経緯。
- 小箱は日本の伝統的な漆塗り技法『うるし（漆）』で作られ、ヨーロッパの技術を凌駕していた。
- ソフィーは自ら同じ技法を試みるが、乾燥しない漆の特性に驚く。
- 京都の職人・西村総一郎との交流を通じて、うるしの本質と歴史的背景を学ぶ。
- マリー・アントワネットの母マリア・テレジアも東洋の漆器を愛し、多くを収集していた。
- 小箱は長い船旅を経てヨーロッパに渡り、王妃の部屋を飾った。
- 革命後も壊されず美術館に収蔵され、現在もほぼ完全な形で保存されている。
- 動画は歴史的背景、工芸技術、文化交流の深さを織り交ぜて描いている。
- 修復士ソフィーの25年の経験がこの小箱の謎を解く鍵となった。

Answers

## Questions about this video

マリー・アントワネットが愛した日本の小箱の特徴は何ですか？

この小箱は桃の形をしており、黒地に金粉が霞のようにかかり、金色の鳩花模様が浮かんでいます。非常に軽く、内側も同じ漆塗りで美しく輝いています。

なぜこの日本製の小箱はヨーロッパで同じものが作れなかったのですか？

日本の漆（うるし）は乾燥しにくく扱いが非常に難しいため、ヨーロッパの技術では同じ質感や輝きを再現できませんでした。ソフィーも実際に漆を使って試みましたが、乾かず苦労しました。

この小箱はどのようにしてベルサイユ宮殿に残ったのですか？

フランス革命の混乱の中でも壊されることなく、王妃の信頼する家臣が丁寧に梱包して運び出し、その後ルーブル美術館などを経てベルサイユ宮殿に戻されました。美しさゆえに保存され続けたとされています。

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Speaker A

ただのニスよ。これはベルサイユ宮殿金の間。修復のソフィーは手のひらに乗るほどの小さな箱を窓からの光にかざしました。桃の形をした箱です。黒に金の粉が霞のようにかかり、鳩花が金色に浮かんでいる。少し古びた東洋の小物入れ。彼女の目にはそう映っていましたけれど、この箱にはある夜の記憶が刻まれています。1789年10月、ゴートがベルサイユ宮殿になだれ込み、国王一家はパリへと連れ去られました。華やかな城を追われた王妃はその後信頼する一人の合唱[音楽]に頼み事をします。城へ戻って私の大切な品を運び出してほしい。その中心にあったのがはるか同意に本から海を渡ってきた小さなうしの箱でした。王妃の名はマリー・アントワネット。全てを失いかけていた王妃がなぜ日本の小箱を守らせたのか。そしてヨーロッパはなぜ100年かけてもこれと同じ[音楽]ものを作れなかったのか。その答えを一人のフランス人が自分の目で確かめることになります。ただの二問い切った修復士のソフィーがこの箱の本当の正体を知るのは京都の小さな攻防、そして岩手の山奥に立つ一本の木の前でした。谷の朝は石畳が濡れていました。ソフィールロは52歳。ベルサイユで家具や工芸品の修復を手掛けて25年になります。彼女の攻防には筆と小刀と何十本もの小瓶が並んでいます。中身はそれぞれ配合の違うに王家の机の化粧台、貴族の小箱、200年300年前の彼女は一つずつ消してきました。中でもソフィーが誇りにしている技があります。ベルニマルタン。18世紀のパリでマルタン兄弟という職人たちが磨き上げた塗りの技です。当時のヨーロッパでは東洋から届く黒く光る器が王規族の憧れでしたけれど、その材料も作り方も誰にも分からなかった。ら自分たちの手で作ってしまえばいい。そうして生まれたのがベルニマルタンでした。ベルサイユの部屋にも馬車にもそのつやかな塗りは使われていきます。ソフィーの祖父もその技を受け継ぐ職人でした。子供の頃祖父の膝の上で嗅いだ樹脂の甘いにおい。それが彼女の仕事の始まりです。昼休み、中庭のベンチで同僚の学芸院マルクが紙コップのコーヒーを差し出しました。聞いたか？ソフィー、王妃の小箱。次は君の担当らしい。東洋のうしね。見たことはあるわ。正直に言えば僕はあれの良さが分からないんだ。黒くて光っていて金色の模様がある。それだけだろう。ソフィーは笑ってコーヒーを一口飲みました。見た目だけならマルタン兄弟[音楽]がとっくに追いついたわ。材料が違うだけ。要するに上等なニスよだろうね。フランスの職人は東洋の真似から始めて東洋を超えた。そういうことさ。二人はそれ以上この話をしませんでした。噴水の水音が午後の光の中で静かに響いていました。その日の夕方ソフィーの机に一通の依頼書が届きます。アメリカロサンゼルスの美術館への貸し出しに向けた状態の点検。対象はマリー・アントワネット像、日本製のうしの小箱、桃の形の箱。ソフィーは依頼書を指先で軽く叩きました。蓋を開けて痛みを確かめて報告書を一枚書く。よくある仕事だと思ったのです。この箱が彼女の25年を根元からひっくり返すことになるとも知らずに。点検の前の晩、ソフィーは攻防に残って箱の記録をめくっていました。古い目録のうし、美術館の大腸、研究者の論文、神の束をたどるうちに手が止まります。この箱の持ち主は初めから王妃だったわけではありませんでした。1780年11月、オーストリアの宮院で一人の女帝が息を引き取ります。マリア・テレジア、マリー・アントワネットの母です。母は東洋のうしを心から愛した人でした。ダイヤモンドよりうしの方が好き。そう語ったと伝えられています。その母が集めたうしのほとんどを残した相手、それがフランスへとついだ末娘でした。小さな箱がおよそ50点。母の片がベルサイユに届くと王妃は自分の支質を丸ごと作り返させます。それが金のした腕利きの家具職人に日本のうしの板を張った家具を揃えさせ、球団の棚を持つガラスの飾り棚を作らせた。箱の多くはその棚に並べられました。中でも気に入っていたのが小さな犬の形をした箱です。王妃はそれを暖炉のそばの承卓に置きました。部屋を訪れた人の目に必ず入る場所です。母から受け継いだ50点に王妃は8年の間にさらに30点ほどを買い足しました。人前では常に見られ噂される王妃。その彼女が家族や親しい友人とだけ過ごす小さな部屋に日本の箱を並べていたのです。けれどその静かな時間は長く続きませんでした。1789年10月5日、パリから押し寄せた軍衆がベルサイユになだれ込みます。国王一家はそのままパリへ連れて行かれました。その5日後、王妃は信頼する家臣に頼んで城から大切な品を運び出させます。その中心にあったのがあのうしの箱でした。車掌は一つずつ目録をつけ、丁寧に[音楽]梱包して運びました。いつか王妃の元へ返すつもりで、しかし箱が王妃の手に戻ることはありませんでした。1793年10月16日、マリー・アントワネットは弾劾に登ります。翌年の3月、革命政府は王妃のうしを国のものにすると決めました。王家のものは次々に売られ壊されていた時代です。それなのにこの小箱だけは壊されませんでした。売られることもなかった。あまりに美しかったからと言われています。箱は荒れたパリの通りを運ばれ、後のルーブル美術館に納められました。そこはかつてフランス王家が暮らした宮殿でもありました。それからおよそ170年、第2次世界大戦の後の美術館へ移され、1965年多くの箱がベルサイユへ帰ってきます。18世紀の王妃の収集がほとんど欠けずに今に残っている。ヨーロッパでも滅多にないことでした。ソフィーは記録を閉じてしばらく天井を見上げました。革命をくぐり抜けた箱。それだけのことだと自分に言い聞かせるように。翌朝白い手袋をはめてソフィーは桃の箱を持ち上げました。最初に驚いたのはその重さでした。ほとんど重さを感じない。金で覆われているのにまるで紙を一枚持っているように軽い。光を受けると金属の塊にしか見えないのに指先でそっと蓋を持ち上げます。中にはもう一枚同じ桃の形をした小皿が入っていました。淡い金色の地に腸に引き桃の葉とつぼみと花の間をヒラヒラと舞っている。小皿を持ち上げて裏を返します。今度は細かな金の粒が夕やけのような色の奥からチラチラとまたいていました。箱の内側も同じが焼きです。300年ほど前に日本で作られた箱。船に揺られて海を渡り、王妃の部屋を飾り、革命をくぐり抜けてきた箱。その内側がたった今塗り上がったばかりのように光っている。ソフィーの指が小皿の縁で止まりました。ミスなら塔に黄ばんでいる。が入って曇っているはずだ。25年自分の手で確かめてきたことです。これは一体何でできているのか。その日の報告書は一目からかけませんでした。点検の報告書には痛みはほとんどないと書きました。それは事実ですけれどソフィーの頭からはあの腸の金色が離れませんでした。自分の手で作ってみれば分かるはずだ。週末の攻防、ソフィーは小さな木の板を何枚も並べ、ソフィーから受け継いだベルニマルタンを重ねていきました。黒を塗り、乾かし、磨き、また塗る。3日かけて仕上げた糸を桃の箱の写真の横に置きます。艶は出ていましたけれど、並べた瞬間に分かります。こちらの黒は表面で光を跳ね返しているだけ。あの箱の黒は奥から光が滲み出てくるようでした。材料が違うなら同じ材料を使えばいい。ソフィーは東洋の本物のうしを取り寄せました。小さな缶の蓋を開けると薄い雨色のとろりとした樹液、ツンとした酸っぱいにおいが攻防に広がります。手袋をしていたのにその夜手首が赤く晴れてひどく痒みました。うしは触れただけで人の肌を荒らす。そのことを彼女は身を持って知りました。薄く塗った板を暖房の効いた乾いた部屋に置きます。ミスなら一晩で指につかなくなる。翌朝指先で触れるとまだべたついていました。2日目も3日目も1週間経っても板は濡れたように光ったまま少しも固まりません。温度を上げてみました。窓を開けて風を当ててもみました。乾かそうとすればするほど、うしはいつまでも柔らかいままでした。25年、どんな塗料でも乾かしてきた手です。その手が小さな感一つに負けている。夜の攻防でソフィーはべたついた板をじっと見つめていました。私は何を知らないのだろう。翌州彼女は一本のメールを送ります。宛先は下美術館の知り合いの学芸院から紹介された日本の京都に住む一人の牧恵氏でした。返事は短いものでした。どうぞいらしてください。見ていただくのが一番早いと思います。6月の京都は雨でした。空港から乗り継いで駅に降りた瞬間、ソフィーの方に生ぬるい空気がまとわりつきます。湿った布を顔に当てられたような重たい空気。タの乾いた風とはまるで違いました。細い路地を抜けた先にその攻防はありました。防止度の古い町や遠を開けると奥からあの酸っぱい匂いがかすかに漂ってきます。遠いところようこそ。西村総一郎74歳。牧の仕事を始めて反世紀を超えます。小柄で声は静か。膝の前には細い筆と小さな竹の筒と金色の粉が入った皿が並んでいました。ソフィーが桃の箱の写真を差し出すと、西村さんは老眼鏡をかけ、長い間黙って見つめていました。京都で作られたものでしょう。この金の巻き方は多分この町の職人の手です。ソフィーは息を飲みました。あの箱の生まれた町に自分は今立っている。西村さんは江戸の頃の話をしてくれました。この町では上等なうしの品が注文を受けて作られていた。それが長崎へ運ばれ、当時日本と秋内を許されていた中国やオランダの商人の手に渡る。その先の旅はソフィーの方が知っていました。王妃が暖炉のそばに置いたあの犬の箱、マカやバタビアの港を経てインド洋を渡り、アフリカの南の橋を回ってアムステルダムへ。1年以上の船旅です。やがてパリの収集家の手に渡り、177年の兄弟の目録にはただ一言犬と記されました。それを買い求めたのがマリー・アントワネットでした。京都の職人が作った犬が海を超えて王妃の暖炉のそばにたどり着いた。二人は顔を見合わせて小さく笑いました。西村さんは作りかけの小箱を見せてくれました。木の上にうしを塗っては固め、トイレはまた塗る。模様を描く前の下地だけで多い時は25回ほど。そこから巻江の層をさらに15回ほど重ねていきます。一つの箱にどれくらいかかるのですか？こういう箱なら一年は見ていただかないと。西村さんは竹の筒を取りました。片方の口に細かい網が張ってあります。濡れたうしの線の上で筒の先を指で軽く弾く。トントン。金の粉が雨のように細かく舞いて線の上にだけすっと吸いついていきました。英語ではうしの器のことをジャパンと言う[音楽]でしょう。西村さんがとつりと言いました。そうでした。国の名前[音楽]を小文字で書けばうのうは真似して塗ることはジャパンと呼ばれました。焼き物がチャイナと呼ばれたようにヨーロッパの人々はこの輝きに国の名前をそのままつけたのです。ソフィーは攻防で固まらなかった板の話を打ち明けました。暖房を効かせて風を当てて一週間待ったこと。西村さんは目尻にシワを寄せて穏やかに言いました。乾かそうとなさったんですね。そしてゆっくりと立ち上がりました。うしは寝かすと固まらないんですよ。の奥に黒い木の扉がありました。西村さんがそのと手に手をかけます。お見せしたいものがあります。扉の向こうは畳一枚ほどの小さな部屋でした。いえ、部屋というより大きな木の戸棚です。中は薄暗らく板の上に塗りかけの器、焼こ箱が静かに並んでいました。一歩近づいた瞬間ソフィーの顔をしっとりとした空気が包みます。八駅で感じたあの重たい締め家。それがこの戸棚の中に閉じ込められていました。西村さんは固く絞った濡

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Speaker A

た。ベルサイの部屋にも馬車にもその つやかな塗りは使われていきます。 ソフィーの祖父もその技を受け継ぐ職人 でした。子供の頃祖父の膝の上で嗅いだ 樹脂の甘いに多い。それが彼女の仕事の 始まりです。昼休み、中庭のベンチで同僚 の学芸院マルクが紙コップのコーヒーを 差し出しました。聞いたか?ソフィー王妃 の小箱。次は君の担当らしい。東洋の うしね。見たことはあるわ。正直に言えば 僕はあれの良さが分からないんだ。黒くて 光っていて金色の模様がある。それだけ だろう。ソフィーは笑ってコーヒーを一口 飲みました。見た目だけなら丸タ兄弟 [音楽]がとっくに追いついたわ。材料が 違うだけ。要するに上等何すよだろうね。 フランスの職人は東洋の真似から始めて 東洋を超えた。そういうことさ。2人は それ以上この話をしませんでした。噴水の 水音が午後の光の中で静かに響いていまし た。その日の夕方ソフィーの机に一通の 依頼書が届きます。アメリカロサンゼルス の美術館への貸し出しに向けた状態の点検 。対象はマリーアントアネット像日本製の うしの小箱桃の形の箱ソフィーは依頼症 指先で軽く叩きました。蓋を開けて痛みを 確かめて報告書を1枚書く。よくある仕事 だと思ったのです。この箱が彼女の25年 を根元からひっくり返すことになるとも 知らずに点検の前の晩ソフィーは攻防に 残って箱の記録をめくっていました。古い 目録のうし、美術館の大腸、研究者の論文 、神の束をたどるうちに手が止まります。 この箱の持ち主は初めから王妃だったわけ ではありませんでした。1780年11月 、オーストリアの宮院で1人の女帝が息を 引き取ります。マリア、テレジア、 マリーアントアネットの母です。母は東洋 のうしを心から愛した人でした。 ダイヤモンドよりうしの方が好き。そう

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Speaker A

語ったと伝えられています。その母が集め たうしのほとんどを残した相手、それが フランスへとついだ末娘でした。小さな箱 がおよそ50点。母の片がベルサイに届く と王妃は自分の支質を丸ごと作り返させ ます。それが金のした腕利きの家具食人に 日本のうしの板を張った家具を揃えさせ、 球団の棚を持つガラスの飾り棚を味らえた 。箱の多くはその棚に並べられました。中 でも気に入っていたのが小さな犬の形をし た箱です。王妃はそれを暖炉のそばの承卓 に置きました。部屋を訪れた人の目に必ず 入る場所です。母から受け継いだ50点に 王妃は8年の間にさらに30点ほどを買た しました。人前では常に見られ噂される 王妃。その彼女が家族や親しい友人とだけ 過ごす小さな部屋に日本の箱を並べていた のです。けれどその静かな時間は長く続き ませんでした。1789年10月5日、 パリから押し寄せた軍衆がベルサイに なだれ込みます。国王一家はそのままパリ へ連れて行かれました。その5日後、王妃 は信頼するが賞に頼んで城から大切な品を 運び出させます。その中心にあったのが あのうの箱でした。車掌は1つずつ目黒を つけ、丁寧に [音楽] 梱包してへ運びました。いつか王妃の元へ 返すつもりで、しかし箱が王妃の手に戻る ことはありませんでした。1793年10 月16日、マリアントアネットは弾当に 登ります。翌年の3月、革命政府は王妃の うしを国のものにすると決めました。王家 のものは次々に売られ壊されていた時代 です。それなのにこの小箱だけは壊され ませんでした。売られることもなかった。 あまりに美しかったからと言われています 。箱は荒れたパリの通りを運ばれ、後の ルーブル美術館に納められました。そこは かつてフランス王家が暮らした宮殿でも

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Speaker A

ありました。それからおよそ170年第2 次世界大戦の後の義美術館へ移され、 1965年多くの箱がベルサイへ帰ってき ます。18世紀の王妃の収集がほとんど かけずに今に残っている。ヨーロッパでも 滅多にないことでした。ソフィーは記録を 閉じてしばらく天井を見上げました。革命 をくぐり抜けた箱。それだけのことだと 自分に言い聞かせるように翌朝白い手袋を はめてソフィーは桃の箱を持ち上げました 。最初に驚いたのはその重さでした。 ほとんど重さを感じない。金で覆われて いるのにまるで紙を1枚持っているように 軽い光を受けると金属の塊にしか見えない のに指先でそっと蓋を持ち上げます。中に はもう1枚同じ桃の形をした小皿ガをって いました。淡い金色の地に腸に引き桃の歯 とつぼみと花の間をヒラヒラと待っている 。小皿を持ち上げて裏を返します。今度は 細かな金の粒が夕やけのような色の奥から チラチラとまたいていました。箱の内側も 同じが焼きです。300年ほど前に日本で 作られた箱。船に揺られて海を渡り、王妃 の部屋を飾り、革命をくぐり抜けてきた箱 。その内側がたった今塗り上がったばかり のように光っている。ソフィーの指が小皿 の縁で止まりました。ミスなら塔に黄ばん でいる。が入って曇っているはずだ。25 年自分の手で確かめてきたことです。これ は一体何でできているのか。その日の報告 書は1目からかけませんでした。点検の 報告書には痛みはほとんどないと書きまし た。それは事実ですけれどソフィーの頭 からはあの腸の金色が離れませんでした。 自分の手で作ってみれば分かるはずだ。 週末の攻防、ソフィーは小さな木の板を何 枚も並べ、ソフから受け継いだベルに 丸タンを重ねていきました。黒を塗り、 乾かし、磨き、また塗る。3日かけて 仕上げた糸を桃の箱の写真の横に置きます

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Speaker A

。艶は出ていましたけれど、並べた瞬間に 分かります。こちらの黒は表面で光を 跳ね返しているだけ。あの箱の黒は奥から 光が滲み出てくるようでした。材料が違う なら同じ材料を使えばいい。ソフィーは 東洋の本物のうしを取り寄せました。小さ な缶の蓋を開けると薄い雨色のとろりとし た樹液ツンとした酸っぱいにおいが攻防に 広がります。手袋をしていたのにその夜 手首が赤く晴れてひどく痒みました。うし は触れただけで人の肌を荒らす。そのこと を彼女は身を持って知りました。薄く塗っ た板を暖房の聞いた乾いた部屋に置きます 。ミスなら一晩で指につかなくなる。翌朝 指先で触れるとまだべたついていました。 2日目も3日目も1週間経っても板は濡れ たように光ったまま少しも固まりません。 温度を上げてみました。窓を開けて風を 当てても見ました。乾かそうとすればする ほどうしはいつまでも柔らかいままでした 。25年、どんな塗料でも乾かしてきた手 です。その手が小さな感1つに負けている 。夜の攻防でソフィーはベたつい[音楽] た板をじっと見つめていました。私は何を 知らないのだろう。翌州彼女は1本の メールを送ります。宛先は下美術館の 知り合いの学芸院から紹介された日本の 京都に住む1人の牧恵氏でした。返事は 短いものでした。どうぞいらしてください 。見ていただくのが1番早いと思います。 6月の京都は雨でした。空港から乗り継い で駅に降りた瞬間、ソフィーの方に 生ぬるい空気がまと割りつきます。湿めっ た布を顔に当てられたような重たい空気。 タの乾いた風とはまるで違いました。細い 路地を抜けた先にその攻防はありました。 防止度の古い町や遠を開けると奥からあの 酸っぱい匂いがかかに漂ってきます。遠い ところようこそ西村総一郎74歳牧の仕事 を始めて反世紀を超えます。小柄で声は

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Speaker A

静か。膝の前には細い筆と小さな竹の筒と 金色の粉が入った皿が並んでいました。 ソフィーが桃の箱の写真を差し出すと、 西村さんは老眼鏡をかけ、長い間黙って 見つめていました。京都で作られたもの でしょう。この金の巻き方は多分この町の 職人の手です。ソフィーは息を飲みました 。あの箱の生まれた町に自分は今立って いる。西村さんは江戸の頃の話をしてくれ ました。この町では上等なうしの品が注文 を受けて作られていた。それが長崎へ運ば れ、当時日本と秋内を許されていた中国や オランダの商人の手に渡る。その先の旅は ソフィーの方が知っていました。王妃が 暖炉のそばに置いたあの犬の箱マカや バタビアの港を経てインド用を渡り アフリカの南の橋を回って アムステルダム上へ1年以上の船旅です。 やがてパリの収集家の手に渡り、177年 の兄弟の目録にはただ一言犬と記されまし た。それを買い求めたのが マリアントアネットでした。京都の職人が 作った犬が海を超えて王妃の暖炉のそばに たどり着いた。2人は顔を見合わせて 小さく笑いました。西村さんは作りかけの 小箱を見せてくれました。木の上にうしを 塗っては固め、トイレはまた塗る。模様を 描く前の下地だけで多い時は25回ほど。 そこから巻江の層をさらに15回ほど重ね ていきます。1つの箱にどれくらいかかる のですか?こういう箱なら1年は見て いただかないと。西村さんは竹の筒を取り ました。片方の口に細かい網が張ってあり ます。濡れたうしの線の上で筒の先を指で 軽く弾く。トントン 金の粉が雨のように細かく舞いて線の上に だけすっと吸いついていきました。英語で はうしの器のことをジャパンと言う [音楽]でしょう。西村さんがとつりと 言いました。そうでした。国の名前

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Speaker A

[音楽]を小文字で書けばうのうは真似し て塗ることはジャパンと呼ばれました。 焼き物がチャイナと呼ばれたように ヨーロッパの人々はこの輝きに国の名前を そのままつけたのです。ソフィーは攻防で 固まらなかった板の話を打ち明けました。 暖房を聞かせて風を当てて1週間待った こと。西村さんは目尻にシを寄せて穏やか に言いました。乾かそうとなさったんです ね。そしてゆっくりと立ち上がりました。 うしはねかすと固まらないんですよ。の奥 に黒い木の扉がありました。西村さんが そのと手に手をかけます。お見せしたい ものがあります。扉の向こうは畳1枚ほど の小さな部屋でした。いえ、部屋という より大きな木の戸棚です。中は薄暗らく板 の上に塗りかけの器焼こ箱が静かに並んで いました。一歩近づいた瞬間ソフィーの顔 をしっとりとした空気が包みます。八駅で 感じたあの重たい締め家。それがこの戸棚 の中に閉じ込められていました。西村さん は固く絞った濡れ付近を手に取ると戸棚の 内側の板を丁寧に吹いていきます。うし 風呂と言います。室と呼びますね。風呂 乾燥室ではないのですか?逆なんです。 ここは閉めらせる部屋なんですよ。西村 さんは棚の器を1つ手に取って光にかざし ました。うしは水が抜けて固まるのでは ありません。うの中に生きた働きをする ものが入っていましてね。それが空気の中 の締めり気を借りてゆっくりと固まって いくんです。暑すぎても寒すぎてもいけ ない。[音楽]ちょうどリーノは気温が およそ25°前後湿度は6割から7割。 気温が14°を下回るとうしはほとんど 固まらなくなると言われています。 ソフィーは[音楽]言葉が出てきません でした。暖房を聞かせた乾いた工房。窓を 開けて当てた乾いた風。自分がよかれと 思ってしたことは全てうが固まるのを邪魔

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Speaker A

することだったのです。乾かそうとすれば するほど固まらない。あの1週間の答えが この小さな戸棚の中にありました。京都の 夏は虫暑いでしょう。西村さんが少し いたずらっぽく笑います。よその方には 評判が悪いんですが、うにとっては ありがたい空気なんです。ソフィーは思わ ず窓の外の雨を振り返りました。駅に降り た瞬間、顔を仕かめたあの空気。この国の 職人たちは何百年もそのしり家と一緒に 仕事をしてきた。西村さんはもう1つ大切 なことを教えてくれました。は表が固まっ た後も真の方が何年もかけてゆっくりと 固くなっていくというのです。だから職人 たちは今でもうしが乾くという言葉を使い ながら決して急がない待つことも仕事の うちなのだとソフィーは桃の箱の小皿を 思い出していました。300年前の蝶が今 塗り上がったばかりのように光っていた 理由。その一端がようやく見えた気がし ました。ですが、西村さんは戸棚の扉を 静かに閉めました。部屋が分かっただけで はまだ半分です。このうしそのものがどこ から来るかご存知ですか?ソフィーは首を 横に振りました。岩手に行ってご覧なさい 。うを書く人に合わせてあげましょう。 京都から新幹線を乗り継いで北へ。岩手県 の北のは外れ、二の情報寺という町に ソフィーは降り立ちました。7月の朝山に はまだ白い霧が残っていました。杉の墓 から落ちるしがポタリポタと肩を濡らし ます。来たな。フランスからだってか工藤 さん68歳。この山で反省鬼近くうしを 書いてきた職人です。腰には木の毛、手に は先の曲がった小さなカ。木に焼けた両手 の甲には古い傷跡がいくつも残っていまし た。わしも若い頃は散々被ぶれたもん [音楽]だ。工藤さんはソフィーの手首に 残る赤い跡を見て目を細めて笑いました。 案内されたのは細いがまっすぐに並ぶ林

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Speaker A

でした。うしの木です。工藤さんは1本の 木の前にしゃがむとカでミキの川を横に 一筋すっと削りました。しばらくすると その傷父のような樹液がじわりじわりと 滲み出てきます。それを小さなヘで一滴 ずつ救い取っていく。救っては桶の縁で 脱ぐ。その繰り返し[音楽]でした。これ で今日の1本は終わりだ。これだけですか ?傷つけすぎれば気が終わる。4日休ませ てまた次の傷をつける。それを6月から 10月までずっと繰り返すのよ。フィーは 恐る恐る訪ねました。1本の木から木と夏 でどれくらい取れるのですか?工藤さんは オケの中を指差しました。200g。まあ 、牛乳瓶に1本[音楽]ってとこだな。1 本の木から木と夏かけて牛乳瓶1本分。 この木は何年育てたものですか?15年。 長いのは20年だ。うしが取れるまでそれ くらいかかる。として工藤さんは少し間を 置いてこう続けました。鳥を割った木は キる。この辺りのやり方でな殺しかきって 言うんだ。霧の中でソフィーは立ち尽くし ました。15年20年かけて育った木が たった一夏で牛乳便に1本分のうしを出し 切ってその一生を終える王妃の金の間に 並んでいた80ほどの小箱桃の箱のあの蝶 の小皿その1つ1つにどれだけの木がどれ だけの年付きが塗り込められていたのか ソフィーの目から涙がこぼれました。ぬお ともせずに彼女は傷の刻まれた細い道を 見つめていました。ただのニスよの中庭で 自分が口にした言葉。あの時らった自分の 声が霧の向こうから聞こえてくるようでし た。工藤さんは何も言いませんでした。 ただ去年切ったという切り株のそばに しゃがんで足元を指び差しました。根元 から膝の高さほどの赤い目が何本も伸びて いました。切っても根は生きてる。こうし て目を出して10年もすればまたかける ようになる。工藤さんは若い目を軽く手の

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Speaker A

ひで叩きました。こいつがかけるように なる頃わしはもいねえ。それでいいのよ。 今日本で取れるうしの8割ほどはこの岩手 [音楽]の北の地方で生まれています。 日本で使われるうしの大半は外国から輸入 されていますが2015年国は国報や重要 文化剤の建物を修理する時には原則として 国産のうしを使うと決めました。そして 2020年にはこのうしかきの技も日本の 伝統建築を守る技の1つとしてユネスコの 無型分解さんに登録されています。霧が 晴れて林の奥まで朝の光が差し込んでき ました。傷の刻ま[音楽]れたミが1本 また1本と白く光って見えました。東京へ 戻る新幹線の中でソフィーはノートを開き ました。窓の外緑の田ぼが流れていきます 。なぜヨーロッパは100年かけてもこれ を作れなかったのか?答えは1つではあり ませんでした。まず木がなかった。うしの 木は東シアジアの木です。ヨーロッパの 職人たちは材料そのものを手に入れること ができませんでした。次に固め方を知ら なかった。塗ったものは乾かして固める。 ヨーロッパの誰もが信じていたその常識が うしに限ってはまるで逆だったのです。と して何より時間でした。木が育つまでに 15年から20年1本の木から人夏かけて 牛乳瓶1本分何十回も塗っては固めトイレ はまた塗る。湿った部屋で急がずに待つ見 た目を真ることならできたけれどその輝き の奥に積み重なった年までは真ねることが できなかったのです。ソフィーは祖父の ことを思い出していました。ベルに マルタンは東洋に憧れたフランスの職人 たちが手に入らないものを何とか形に しようとして生み出した技です。それも また美しい仕事でした。ただうしとは初め から別のものだった。ノートの最後に彼女 配置だけ描きつけました。これはニスでは ない。

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Speaker A

王妃の小箱はこれまでに何度かベルサイの 外へ旅をしています。2008年の遅れ、 東京の[音楽]サントリー美術館で ジャパン牧殿を飾る東洋のキめ金という 展覧会が開かれました。ベルサイど ヨーロッパの宮殿からかつて海を渡った 牧江が集められ、国内の名品と合わせて およそに140点が並びました。300年 前に長崎を出ていったうしが生まれた国に 人帰ってきたのです。そして2018年 アメリカロサンゼルスの下美術館で [音楽]王妃のうしを紹介する展覧会が 開かれます。中でも人気を集めたのがあの 犬の形の箱でした。さらにこの展示では いくつかの箱がフランス革命の後初めて蓋 を開けた姿で公開されました。200年 以上閉じられたままだった内側の輝きを 世界中の人々が目にしたのです。こうした うしの物語に触れた海外の人たちからは 例えばこんな声が聞かれます。王妃が城を 追われた後真っ先に守らせたのが日本の 小箱だったなんて。彼女がどれほど大切に していたかそれだけで伝わってくる。1本 の木から一夏でたったに100g。それを 知ってから美術館のガラスの向こうの箱が まるで違って見えるようになった。そして うしの強さを世界に知らしめた。こんな 出来事も残っています。1873年、日本 は初めて国として正式に万国博覧会に参加 しました。開かれた場所はオーストリアの 委員マリアテレジアがうを愛し息を 引き取った都子です。亭が要去ってから 100年ほど後、今度は日本が自らの手で うを携さえてウィーンへ乗り込んだのです 。白覧会が終わり、出品されたシジナは フランスの船に積まれて日本へ向かいまし た。ところが1874年3月。その船は 伊豆半島のおで座称し沈んでしまいます。 荷物の引き上げが続けられ、海の底から1 つのうしの圏代が上がってきたのは沈没

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Speaker A

から1年半ほど経った頃でした。150年 ほど前に作られた黒うに金の巻を施した 現代です。当時の政府の報告[音楽]には こう知記されています。黒いうしも金の薪 も昔のママにまゆくかが焼きわずかな痛み もない。1年半冷たい海水にさらされても うしは負けなかったのです。この県代は2 年後にアメリカで開かれた フィラデルフィア万国泊覧会にもう1度 出品されました。日本のうしがどれほど 丈夫なものかその何よりの証としてニス なら当に基盤でキが入っているはずだ。 ベルサイユでソフィーがそう考えた桃の箱 の輝きは偶然ではありませんでした。秋の ベルユ園 の波きが少しずつ色を変え始めていました 。ソフィーはあの点検報告書初めから 書き直していました。1目はもう決まって います。これはニスではないうし東アジア に育つきの樹液しめり家の中で時間をかけ て固まりその後も何年もかけて真くなって いく1本の木が15年20年の命と 引き換えに一夏で出すわずかなしくそして 最後に効果競えました。今後この修造品の 手当ては日本のうしを持ち、日本の職人の 知恵を借りて行うこと。攻防の扉を叩く音 がしました。同僚のマルクです。報告書に 目を通すと彼はしばらく黙っていました。 1目から随分変わったね。変わったのは 報告書じゃないわ。私の方よ。ソフィーは 笑いました。まるくも少し照れたように 笑いました。机の上には小さな包みが1つ 置いてありました。京都の西村さんから 届いたものです。中には黒いうのワが1つ と短い手紙。毎日使ってください。使う ほどに艶が出てきます。その番ソフィーは そのおに温かいスープを注ぎました。手の ひに伝わる柔らかなぬくもり。口をつける と驚くほど軽く唇に優しい、あの王妃も こんな風にこの手触りを愛したのかもしれ

27:34

Speaker A

ない。そう思いました。数日後、金の間の 窓から秋の光が斜めに差し込んでいました 。ソフィーは白い手袋をはめ、もう1度 だけ桃の箱の蓋を開けました。淡い金色の 中で2匹の腸が[音楽]変わらず羽を広げ ています。海を渡り、王妃の手を離れ、 革命をくぐり抜け、300年、その間 ずっとこの暗がりの中で蝶たちは光を守っ てきたのです。ソフィーはそっと蓋を閉じ ました。この箱はもうすぐ海を超えて アメリカの美術館へ旅立ちます。展示では 蓋は閉じられたまま並ぶことになってい ました。中の蝶を知っているのはほんの 人にぎりの人だけ。それでいいと思いまし た。日本の職人は見えないところ[音楽] にこそ手を抜かない。京都で、そして岩手 の山で彼女はそれを教わったのですから。 ところであなたの家の食器棚にもうしのワ が1つ眠っていないでしょうか。お正月に だけ出す箱かもしれません。その黒い艶は かつてヨーロッパの王妃が城を追われても 守らせた輝きと同じものです。として1本 の木が人かけて出し切った命のしくでも あります。次にそのおを手に取る時ほんの 少しだけ思い出していただけたら嬉しい です。ジャパンディスカバリーではこれ からも世界が見つめてきた日本の技と心を お届けしていきます。よろしければ チャンネル登録と高評価をお願いいたし ます。あなたの家に残るうしの器の思い出 も是非コメント欄で聞かせてください。 最後までご覧いただきありがとうござい ました。

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