**ノーベル賞の授賞式の日、アインシュタインは日本にいた…天才が43日間で見つけた"西洋にないもの"【海外の反応】 — Transcript & Summary | SozAI**
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1922年、ノーベル物理学賞受賞直後のアインシュタインが来日し43日間を過ごした足跡を、講演・人力車・歌舞伎・日本文化への感想を通して描くドキュメンタリー風動画。

## Key Takeaways

- アインシュタインの来日は、ドイツでの政治的危機から逃れる側面もあった
- 受賞の知らせよりも旅と見聞を優先した姿勢が、彼の人物像を表している
- 西洋と東洋の文化の違いに対する鋭い観察と敬意が日記や言動に見られる
- 当時の日本社会は彼を熱狂的に迎え、大規模な歓迎が行われた

## What the video covers

- アインシュタインは1922年11月に来日し、東京の慶應義塾で最初の講演を行い、2000人以上が集まった
- ノーベル物理学賞の受賞式(ストックホルム、12月10日)の日、彼は京都にいて受賞式には出席しなかった
- ドイツ外相ラーテナウ暗殺後、身の危険を感じて日本行きを決意した背景が語られる
- コロンボで初めて人力車に乗った際、人が人を引く姿に恥ずかしさを感じ、日本でも人力車に乗らなかった
- 香港でノーベル賞受賞の知らせを知らず、上海で正式な通知を受けた。日記には受賞について一言も記されていない
- 43日間の滞在中、帝国ホテルでの生活、菊の会への招待、皇太子との対面などが紹介される
- 歌舞伎や雅楽、能に触れ、日本の音楽に強い関心を示した。歌舞伎終演後は楽屋で役者に礼を述べた
- 漫画家岡本一平が同行し、アインシュタインの似顔絵を描いた。『思考の貯蔵庫としての頭』という自筆の書き込みがある
- 日記で日本人を『イタリア人に似ているがより洗練され、芸術の伝統に生きている』と評した
- 西洋の優れた部分は守るべきだという趣旨の文章を残したとされる

Answers

## Questions about this video

アインシュタインはなぜ日本に来たのですか？

1922年に東京の出版社改造社から公演旅行の正式な依頼があったことが発端です。さらに、ドイツの外相ラーテナウが暗殺され、自身も狙われているとの警告を受けたことで、長くドイツを離れる機会を歓迎していたと動画では語られています。

ノーベル賞の受賞式には出席したのですか？

出席していません。受賞式が行われた12月10日、彼は京都にいて町を見て回っていました。受賞式にはドイツの講師が代わりに出席し、賞を受け取りました。

アインシュタインは日本で人力車に乗りましたか？

コロンボで一度乗りましたが、汗だくで走る男たちを見て恥ずかしさを感じ、虐待のようだと日記に書きました。そのため、日本に着いてからは一度も人力車に乗らなかったとされています。

## Full Transcript — Download SRT & Markdown

00:00

Speaker A

大正11年の11月、アインシュタインが日本にやってきました。日本で最初の公演は東京の慶應義塾で開かれ、会場には2000人以上が集まっています。彼はメモなどを見ずにドイツ語で話し、15分ほど話すごとに区切って日本人の物理学者が通訳しました。話したのは相対性理論です。通訳を入れると約4時間もかかりましたが、ほとんどの人が最後まで席を立たずに聞いていました。実はこの時、彼のノーベル物理学賞が決まってまだ10日ほどでした。それなのに彼は受賞式には出ずに公演を続けました。ストックホルムで受賞式があった日、アインシュタインは京都にいたのです。旅を続けていた彼は43日間この国を見て回りました。その間、人力車を拒まず、歌舞伎を見た後は楽屋まで行って役者にお礼を言っています。記者の中で描かれた自分の似顔絵には冗談のような言葉を書き込みました。そして旅を終えた後、日本人に向けた文章の中で、西洋から学ぶのはいいけれど、西洋より優れているものは守ってほしいと書いています。彼は日本で何を見てそう書いたのでしょうか。この旅が始まる前、アインシュタインはドイツで命の危険を感じていました。日本に来る5ヶ月前の6月、ドイツの外務大臣ラーテナウが車で役所へ向かう途中、銃で撃たれて亡くなったのです。撃ったのはユダヤ人を憎む右翼の若者たちでした。ラーテナウはユダヤ人で、アインシュタインと親しくしていました。そしてアインシュタインも同じユダヤ人です。事件の後、彼のもとにも「あなたも狙われているらしい」という警告が届きます。その時、彼にはその年の秋に日本へ行く予定がありました。前の年に東京の出版社「改造社」から公演旅行の正式な依頼が来ていたのです。一度は条件が合わずに断りましたが、年が明けてもう一度招待され、今度は引き受けていました。この時改造社との間に入ったのが、ドイツに留学していて、彼とも知り合いだった物理学者の石原純です。石原は日本で彼の公演の通訳を務めることになります。アインシュタインにも元々東洋の国へ行ってみたい気持ちがありました。ですから暗殺事件の後、彼は知人への手紙にこう書いています。「長くドイツを離れる機会ができて本当にほっとしました。」そして暗殺から4ヶ月が経った10月の始め、彼は妻のエルザとフランスのマルセイユから日本郵船の北野丸に乗り込みました。日本まではおよそ40日の船旅です。北野丸は地中海を東へ進み、スエズ運河を抜けてインドに出ました。北野丸が西洋を出て3週間ほど経った頃、船は当時イギリスの植民地だった正論、今のスリランカのコロンボ港に寄りました。アインシュタイン夫妻も船を降りて町を見て回ることにしました。そこで2人が乗ったのが人力車です。1人乗りの小さな車を力の強い男たちが引いて、小走りで街の中を進んでいきます。彼にとってはこれが初めての人力車でした。けれど汗だくになって走る男たちを見ているうちに、彼は恥ずかしくなってきます。その日の日記にはこう書いています。「人間をこんなひどい扱い方をすることに自分も加担している。とても恥ずかしい。でもどうすることもできなかった。」人が人を乗せて走らせることを、虐待のように感じたのでしょう。だから日本についてからも、彼は決して人力車に乗ろうとしませんでした。コロンボを出た北野丸はシンガポールを経て香港に着きます。11月9日、彼は香港で山の上へ登るケーブルカー、ピークトラムに乗っていました。ちょうどその日、遠いストックホルムでアインシュタインのノーベル物理学賞が決まります。でも本人はまだそのことを知りません。知らせが届いたのは3日ほど後、船が上海に着いた時でした。スウェーデン王立科学アカデミーからの電報が届いていて、続いてスウェーデンの領事がノーベル賞の受賞を正式に伝えに来たのです。受賞の理由になったのは光電効果という光の性質についての研究でした。ところが彼がつけていた旅の日記には、このノーベル賞のことが一言も出てきません。アインシュタインはノーベル賞の受賞を一体どう受け止めていたのでしょうか。受賞式は12月10日にストックホルムで開かれますけれど、彼を乗せた北野丸はそのまま日本へ向かいました。横浜を出てから40日目、北野丸は神戸港に着きます。港には東京から来た物理学者の長岡半太郎や石原、九州の物理学者の久保田、それにドイツの領事などが出迎えに来ていました。さらにノーベル賞が決まったばかりの学者を一目見ようと、大勢の人も集まっています。ここから彼の日本での43日間が始まります。神戸に着いたその夜、夫妻は京都へ移り、高台にあるホテルに泊まりました。ホテルからは夜の京都の町を見下ろすことができます。その景色を彼は日記にこう書きました。「下の町はまるで光の海、強烈な印象。」初めて会った日本の人たちについても、「親切で上品、とても好ましい」と書いています。次の日の朝、一行は急行列車で東京へ向かいます。窓からは琵琶湖や富士山が見え、途中では関ヶ原にも立ち寄りました。車窓から見た日本の様子も、彼は日記に書き留めています。「古い日本の建物、通りを歩く可愛らしい生徒たち、清潔な村、隅々まで丁寧に耕された畑。」その車両には新聞記者たちも乗り込んできていました。日記にはいつも通り、馬鹿げた質問を受けたとあります。そして東京駅に着いたのは夜の7時過ぎです。ホームと駅前の広場には何万人もの人が集まっていました。あまりの人の多さに夫妻は30分以上もホームから出られません。警察も人の波を抑えきれず、出迎えに来た学者たちは満足に挨拶もできないほどでした。アインシュタインは次々に花束を渡され、万歳の声の中を駅から出ていきました。止まったのは日比谷の帝国ホテルです。そのホテルの前にも一目見ようとする人たちが集まってきました。その様子に彼は妻のエルザに「こんなに歓迎されるほど偉い人間なんてこの世にいないよ」と話したと伝えられています。それでもその夜は遅くまで、通訳の石原純と翌日の公演の打ち合わせをしました。こうして次の日、東京の慶應義塾で日本で最初の公演が開かれます。4時間に及ぶ公演の後、彼は聞いている人たちが疲れてしまったのではないかと気になりました。そこで次の公演は2時間半ほどに縮めています。すると今度は聞きに来た人たちから不満の声が上がったと伝えられています。もっと聞きたかったのに、という不満でした。どこへ行っても大勢の人に囲まれ、講演に追われる毎日でした。そんなある日、帝国ホテルに泊まっていた彼の部屋に、配達人がメッセージを届けに来ます。アインシュタインは配達人にチップを渡していません。日本にはチップを受け取る習慣がなかったからとも、手元に細かいお金がなかったからとも言われていて、本当の理由ははっきりしていません。その代わりに彼はドイツ語で書いたメモを2枚、配達係かりに渡しました。ホテルの便箋に書かれた1枚目にはこうありました。「静かで慎ましい生活は絶えざる不安に縛られた成功の追求より多くの喜びをもたらす。」2枚目は「石あるところに道は開ける」という一言です。なぜこの言葉を書いて配達係かりに渡したのか。その本当の意味は彼本人にしかわかりません。そして東京に着いて3日後、彼は皇室の菊の会に招かれます。菊の会は皇室が毎年秋に開く、菊を眺める園遊会です。会場の赤坂の離宮の庭でアインシュタインを迎えたのは皇太子でした。大正天皇は体が弱く、この頃はほとんど人前に出ていなかったのです。会には加藤友三郎首相をはじめ、政治家や各国の外交官も招かれていました。ところがおよそ3000人の参加者は彼に夢中になり、何のために集まったのかを忘れてしまったかのようだったとドイツ大使館は報告しています。こうした講演や園遊会の合間に、彼は日本の文化にも触れています。元々日本に来る前から、日本の芸術、特に音楽を知りたいと話していたアインシュタインです。東京にいる間に大学の音楽学部で雅楽を聞き、能や歌舞伎も見て、日本の音楽にとても興味を惹かれました。彼は自分から山田耕筰に頼んで体験させてもらってもいます。歌舞伎を見た時には、終演後に楽屋まで訪ねて役者たちに直接お礼を言いました。もちろん講演も続きます。東京帝国大学では専門家の講義も開かれ、相対性理論に反対する若い研究者が、彼に直接議論を挑む場面もありました。そんな彼の周りにはいつも人が集まっていました。その中に、頼まれてもいないのに一行について回る日本人がいます。朝日新聞の漫画家、岡本一平です。「芸術は爆発だ」の言葉で知られる芸術家、岡本太郎のお父さんです。一平はアインシュタインを尊敬していて、すぐ近くで見てみたいと自分から一行に加わったのです。そして旅の様子を新聞に書き、アインシュタインの姿を何枚も絵に描いていました。やがて東京での公演を終えると、一行は仙台へ向かいます。もちろん一平も一緒です。仙台では市民公開で開かれた講演に350人ほどが集まり、東北帝国大学も訪れています。その合間にアインシュタインは日本三景の1つ、松島へ日帰りで出かけました。一緒に行ったのは改造社の山本笃彦と岡本一平です。松島へ向かう汽車の中で、一平はアインシュタインの似顔絵を描きました。それを見たアインシュタインは絵にドイツ語でこう書き込みます。「アルベルト・アインシュタイン、または思考の貯蔵庫としての頭」。自分の頭を考えをしまっておく倉庫に見立てた冗談です。一平は仙台でも別の日に1枚を描いています。アインシュタインはその絵にもお礼の言葉を書き添えました。この絵は今、アメリカのプリンストン大学の図書館に残っています。仙台を後にした一行は、次に日光へ向かいました。日光では3日間、寺や神社を巡り、山を歩いています。日光に向かったその日、彼は日記に日本人のことをこう書きました。「日本人は気質がイタリア人に似ているが、もっと洗練されていて、今も芸術の伝統の中に生きている。神経質なところがなく、ユーモアに溢れている。」日光を見て回った後、東京を離れ、名古屋を経て

02:17

Speaker A

引き受けていました。この時改造者との間 に入ったのがドイツに留学していて、彼と も知り合いだった物理学者の石原です。 シ原は日本で彼の公演の通訳を務めること になります。アインシュタインにも元々 東洋の国へ行ってみたい気持ちがありまし た。ですから暗殺事件の後、彼は知り合い への手紙にこう書いています。長くドイツ を離れる機会ができて本当にほっとしまし た。として暗殺から4ヶ月が経った10月 の始め、彼は妻のエルザとフランスの丸 声優から日本優先の北の丸に乗り込みまし た。日本まではおよそ40日の船旅です。 北の丸は地中海を東へ進みス末スウズ運河 を抜けてインドに出ました。丸西洋出て3 週間ほど経った頃船は当時イギリスの職民 地だった正論。今のスリランカのコロンボ 校によります。アインシュタイン夫妻も船 を降りて町を見て回ることにしました。 そこで2人が乗ったのが人力者です。 1人乗りの小さな車を力の強い男たちが 引いて小走で街の中を進んでいきます。彼 にとってはこれが初めての人力記者でした 。けれど汗だになって走る男たちに聞かれ ているうちに彼は恥ずかしくなってきます 。その日の日記にはこう書いています。 人間をこんなひどい扱い方をすることに 自分も加担している。とても恥ずかしい。 でもどうすることもできなかった。人が人 を乗せて走らせることを虐待のように感じ たのでしょう。だから日本についてからも 彼は決して人力記者に乗ろうとしません でした。コロンボを出た北の丸は シンガポールを経て香港につきます。11 月9日、彼は香港で山の上へ登るケーブル カーピークトラムに乗っていました。 ちょうどその日、遠いストックホルムで アインシュタインのノーベル物理学賞が 決まります。でも本人はまだそのことを 知りません。知らせが届いたのは3日ほど

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Speaker A

後、船が上海に着いた時でした。 スウェーデン王立科学アカデミーから伝統 が届いていて、続いてスウェーデンの 創領寺が受賞を正式に伝えに来たのです。 受賞の理由になったのは高電光家という光 の性質についての研究でした。ところが彼 がつけていた旅の日記にはこのノーベル賞 のことが一言も出てきません。 アインシュタインはノーベル賞の受賞を 一体どう受け止めてい[音楽]たの でしょうか?受賞式は12月日にストック ホルムで開かれますけれど彼を乗せた北の 丸はそのまま日本へ向かいました。丸西洋 を出てから40日目北の丸は神戸校に着き ます。港には東京から来た物理学者の長岡 半太郎や石原、九州の物理学者のク彩を、 それにドイツの領事などが出迎えに来てい ました。さらにノーベル賞が決まった ばかりの学者を一目見ようと大勢の人も 集まっています。ここから彼の日本での 43日間が始まります。神戸に着いたその 夜、夫妻は京都へ移り、高台にあるホテル に停まりました。ホテルからは夜の京都の 町を見下ろすことができます。その景色を 彼は日記にこう書きました。下の町は まるで光の海、強烈な印象、初めてあった 日本の人たちについても関素で上品とても 好ましと書いています。次の日の朝、富は 急行列車で東京へ向かいます。窓からは 琵琶湖富士山が見え、途中では関ヶ原にも 立ち降りました。記者の窓から見た日本の 様子も彼は日記に書き止めています。唯 ある日本の建物、通りを歩く可愛らしい 生徒たち、清潔な村、住々まで丁寧に耕さ れた畑。その記者には新聞記者たちも 乗り込んできていました。日記にはいつも 通り馬鹿げた質問 います。そして東京駅に着いたのは夜の7 時過ぎです。ホームと駅前の広場には何万 人もの人が集まっていました。あまりの人

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Speaker A

の多さに負妻は30分以上もホームから出 られません。警察も人の波を抑えきれず 出迎えに来た学者たちは録に挨拶[音楽] もできないほどでした。シュタインは次々 に花束を渡され、万歳の声の中を駅から出 ていきました。止まったのはキビ屋の帝国 ホテルです。そのホテルの前にも一目 見ようとする人たちが集まってきました。 その様子に彼は妻のエルザにこんなに歓迎 されるほど偉い人間なんてこの世にいない よと話したと伝えられています。それでも その夜は遅くまで通訳の石は羅順と翌日の 公園の打ち合わせをしました。こうして次 の日王技塾で日本で最初の公演が開かれ ます。4時間に及ぶ公演の後、彼は聞いて いる人たちが疲れてしまったの[音楽]で はないかと気になりました。そこで次の 公演は2時間半ほどに縮めています。する と今度は聞きに来た人たちから不満の声が 上がったと伝えられています。もっと聞き たかったのにという不満でした。どこへ 行っても大勢の人に囲まれ公園に追われる 毎日でした。そんなある日帝国ホテルに 泊まっていた彼の部屋に配達がメッセージ を届けに来ます。アインシュタインは配達 にチップを渡していません。日本には チップを受け取る習慣がなかったからとも 手元に細かいお金がなかったからとも言わ れていて本当の理由ははっきりしていませ ん。その代わりに彼はドイツ語で書いた メモを2枚配達係かりに渡しました。 ホテルの戦に書かれた1枚目にはこうあり ました。静かで包ましい生活は絶まない 不安に縛られた成功の追求より多くの喜び をもたらす2枚目は石あるところに道は 開けるという一言です。なぜこの言葉を 書いて配達係かりに渡したのか。その本当 の意味は彼本人にしかわかりません。 そして東京について3日後、彼は皇室の区 会に招かれます。

09:09

Speaker A

会は皇室が毎年秋に開く菊を眺める演会 です。会場の赤坂の庭でアインシュタイン を迎えたのは低郷でした。大正天皇は体が 弱くこの頃はほとんど[音楽]人前に出て いなかったのです。会には加藤とも三郎 首相[音楽]を始め、政治家や各国の外交 官かれていました。ところがおよそ 3000人の参加者は彼に夢中になり何の ためのカナのかを忘れてしまったかのよう だったとドイツ大使館は報告しています。 こうした式点や公園の合間に彼は日本の 文化にも触れています。元々日本に来る前 から日本の芸術特に音楽を知りたいと話し ていたアインシュタインです。東京にいる 間に区内省の学部で画学を聞き、農屋 歌舞伎も見て日本の音楽にとても興味を 惹かれました。佐藤も自分から山本彦に 頼んで体験させてもらっています。一村座 で歌舞伎を見た時には終わった後屋まで 訪ねて役者たちに直接お礼を言いました。 もちろん公演も続きます。東京帝国大学で は専門家の講義も開かれ、相対性理論に 反対する若い研究者が、彼に直接議論を 挑む場面もありました。そんな彼の周りに はいつも人が集まっていました。その中に 頼まれてもいないのに一について回るに 本人がいます。朝日新聞の漫画家岡本一平 です。芸術は爆発だの言葉で知られる芸術 家岡本太郎のお父さんです。一ぺイは アインシュタインを尊敬していて、すぐ 近くで見てみたいと自分から一向に加わっ たのです。そして旅の様子を新聞に書き、 アインシュタインの姿を何枚も絵に書いて いました。やがて東京での公演を終えると 一方は記者で東北の仙台へ向かいます。 もちろん一ぺも一緒です。現代では市野 公開で開かれた公園に350人ほどが 集まり、東北帝国大学[音楽]も訪れてい ます。その合間にアインシュタインは日本 産経の1つ松姉妹日帰りで出かけました。

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Speaker A

一緒に行ったのは改造者の山本佐彦と岡本 一平です。松島へ向かう記者の中で一ぺは アインシュタインの苦顔絵を書きました。 それを見たアインシュタインは絵にドイツ 語でこう書き込みます。アルベルト アインシュタイン、または思考の貯蔵庫と しての花、自分の花を考えをしまって 奥倉庫に見立てた冗談です。一ぺイは仙台 でも隅でも1枚を描いています。 アインシュタインはその絵にもお礼の言葉 を書き添えました。この絵は今アメリカの プリンストン大学の図書館に残っています 。仙台を後にした一光は次に日光へ向かい ました。日光では3日間寺や神社を巡り山 を歩いています。中前事故へ向かったその 日、彼は日記に日本人のことをこう書き ました。日本人は奇質がイタリア人に似て いるが、もっとされていて、今も芸術の 伝統の中に生きている。神経室なところが なくユーモアに溢れていると日光を見て 回った後、東京を離れ名古屋を経て京都へ 向かいました。京都について間もない12 月10日ストックホルムではノーベル賞の 受賞式が開かれました。彼の代わりに式に 出たドイツの講師が賞を受け取り挨拶を 読み上げました。その日彼本人は京都の町 を見て回っていたのです。気温では踏むと 鳥の鳴き声のような音がするうぐいスりの 廊下を歩いています。その姿を一ぺに書き ました。京都書も見学し、日記には内庭は これまで見た中で最も正建築の1つだと 書いています。次の日には大阪へかけ 中野島の中央公開でも講演をしました。 そして京都に戻って数[音楽]日後、京都 帝国大学で予定になかった講演が開かれ ます。頼んだのは哲学者の西田太郎でした 。この日大学には大勢の学生が集まり、 早朝[音楽]と学生の代表が アインシュタインを迎えて挨拶をしました 。2人とも完璧なドイツ語で話し、彼は

13:51

Speaker A

日記にとても心がこもっていたと書いてい ます。その学生たちの前で彼は私はいかに して相対性理論を作ったかという話をし ました。相対性理論を思いつくまでの道の 量自分の言葉で語ったのです。その中には こんな話もあります。スイスのベルンの 特許局で椅子に座っていた時、ふと人が 落ちていく時には自分の重さを感じない はずだと気づいた。この思いつきが重力の 理論につがったという話です。実は彼は この公演のメモを残していません。記録と して残ったのは通訳をしていた石原の ノートだけです。石原はそれを雑誌改造に 載せました。おかげでこのノートは本人が 相対性理論の生まれた道のりを語った記録 として今も世界の研究者に読まれています 。公園から3日後、アインシュタインは 京都からスイスに住む2人の息子に手紙を 書きました。そこには日本の人たちのこと がこう書かれています。日本人はこれまで あったどの国の人たちよりも気に入った。 物静かで控えめで頭が良く芸術が分かり 思いやりがある日記にも同じ気持ちが書か れています。日本人が外国から来た先生を 敬う姿には皮肉や疑いが全くない。そして 他のどこにもないほど純粋な魂だ。この国 を愛し尊敬せずにはいられないとまで書き ました。そんな京都を後にして一はさらに 西へ向かいます。西へ向かう途中一は広島 の宮島に立ち降りました。彼は海沿いを 歩いて伊島神社を眺め未線の頂上まで三道 を登っています。その日の日記には山の中 に自然の神々を祭る小さな社代が数えきれ ないほどあったと書きました。宮島から さらに西へ進み一は九州に渡ります。日本 での最後の公園は福岡で開かれました。 その前の番から負妻が止まっていたのが 文字の三井クラブです。前の年に立った ばかりの妖感でした。負妻が止まった2階 の部屋は今もアインシュタインメモリアル

16:13

Speaker A

ルームとして当時の姿のまま残されていて 、負債には少し小さかったという2つの ベッドもそのまま置かれています。そして 文字で迎えた12月25日のクリスマス。 彼は文字のIMCAで開かれた子供たちの クリスマス会に招かれます。ただこの日の 日記は少しぼやき気味です。クタクタに 疲れて文字に戻ったら子供のクリスマス会 に連れて行かれバイオリンを引かされたと 書いています。その時彼は石川千子の ピアノに合わせて子供たちのために安倍 マリアを引きました。クリスマスから4日 後の12月29日は文字港から春丸に乗り 43日間を過ごした日本を離れます。日本 を離れて12日後、シンガポールの近くを 進む船の上でアインシュタインは友人の 物理学者ボアに手紙を書きました。ボアは 彼と同じ時にノーベル賞を受けた物理学者 です。その手紙にはこうあります。日本と 日本人にすっかり魅了されました。あなた もきっとそうなるでしょう。この旅の後、 彼は日本の人たちに向けて日本の印象を 綴った文章も書いています。その中で日本 人が西洋の学問を尊敬し、熱心に学んで いるのは正しいことだと書きました。その 上でこう続けていますけれど、西洋より 優れているものを忘れずに守ってほしい。 彼があげたのは3つです。暮らしを芸術の ように形づくこと、自分の暮らしに多くを 求めない包ましさと飾り家のなさ、そして 日本人の心のしけさです。東京の帝国 ホテルで配達係かりに渡したメモにも静か で包ましい生活という言葉がありました。 あのメモはその後も配達係かりの家族が 大事に持っていました。そして95年経っ た2017年配達係かりの親族がこの2枚 の目もエルサレムのオークションに出し ます。静かで包ましい生活のメモに予想さ れていた値段は5000ドルから 8000ドルほどでした。ところが落殺額

18:32

Speaker A

は156万ドル。日本円でおよそ 1億7000万円にもなりました。石ある ところに道は開けるのめも24万ドルで 落殺されていますけれどアインシュタイン が日本に残していったのはこの2枚の髪 だけではありません。当時京都に16歳の 少年がいました。後の物理学者友長新一郎 です。友長はアインシュタインの来日で 日本が湧いたことや通訳の石原が書いた 相対性理論の本に刺激を受けて物理学に 興味を持ったと言われています。そして それから43年後の1965年友長新一郎 はノーベル物理学省を受賞しました。は秀 に続く日本人で2人目のノーベル賞でした 。アインシュタインが日本を訪れてから 100年余りが経ちました。あの時彼が 日本の人たちに忘れずに守って欲しいと 書き残したもの。暮らしを芸術のように 形づること。包ましさと飾り気のなさ、 そして心のしけさ。便利なものに囲まれ。 毎日忙しく過ごしている今の私たちの 暮らしは100年前とは大きく変わりまし た。それでも彼が心を動かされた。あの つましい暮らしぶりや人を思いやる静かな 心は今も私たちの中に残っているでしょう か?遠い国から来た1人の科学者がこの国 の人たちにずっと大切にして欲しいと願っ たもの。それを次の100年へついで いけるかどうかは今を生きる私たち 1人1人にかかっているのかもしれません 。

Topics: アインシュタイン 来日 大正時代 ノーベル賞 相対性理論 人力車 歌舞伎 岡本一平 日本文化 海外の反応

この動画で学習

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